真実一路の人

痛哭 永田末男さん   愛知 酒井 博

 

労働運動研究 1995.10 No.312

 

 

ロらにに

 「花発けば風雨多く、人生別離足し」初夏である。庭一杯の紫陽花のカーテンをパックに二人の男がこちらを向いている。二人とも喜寿を超えているが、老いの暗さはない。この一枚の写真は通行人が撮ったものだが.カメラは幻の名作べス単である。藤本功さん自慢の愛機だ。藤本さんと肩を並べているのが、永田末男さんである.人生を真摯に生き抜いた男の美しい顔である〔四八頁参照)

  「人間の顔はどんなに繕っても、その精神を繕うことはできない」ある写真家の言葉だ。四年前の松坂の古い禅寺でのスナップが二人の最後の友情の記念になってしまった。

  一九九五年九月十日午後九時一分。

三重県松坂中央病院の一室で永田末男さんが永眠した。七十六歳。病名は大腸癌、まだ多くの仕事を残したままの痛哭の死であった。

 九月十二目十時半、近鉄名古屋駅の改札口に藤本さんを輪に愛知の仲間たちが集まった。沈痛な顔ばかりだ。駅前の水野晴康さんが真っ先に駆けつけた。この方は民族派の人だ。

 三十数年前、権力絡みの事件で名古屋刑務所に入所した水野さんの早期釈放に永田さんが奔走したことがあった。水野さんは、それを恩義とされ、出所後は巷の弱者のために闘い続けている仁侠の人である。水野さんは十五年前、永田さんが大須事件で三重刑務所に入所した際にも見送ってくれた一人である。「徳は孤ならず」という言面葉は真理だった。

 今はある大企業の重役の北島修一郎さんは香典と一緒に温かい弔電を届けてくれた。全国金属の役員であった六十年代、永田さんと共に松川裁判闘争に参加した方である.

 多くの共産党員が運動の精神を忘却していく中で、初心そのままの誠実の人である。「私が信じたのは、永田さんの真っ直ぐな姿なんです」これが、北島さんの短い永田評である。高遇な理念や華命的な説教を説かれるより、その人物のあり方が人間の魂を動かすのだという.ことを、北島さんは永田さんの生活の中にはっきり見ていたのだ。

 午後一時、松阪市殿町一二三五番地の一の自宅において永田未男さんの葬儀が始まった。正面に掲げられた遺影は、永田さんが元気な時の威厳に満ちた顔であった。

初対面の人は怖いというが、眼鏡を外すと実にやわらかい顔になる。かつて、神山茂夫を文学者の丸山静が「蓋世の英雄」と評したことがある。

 私は、永田さんこそ、百姓一揆以来わが国大衆運動の優れた司令官であったと思う。私が永田さんの資質として尊敬するのは、敗軍の将としての責任のとりかたであった。多くの軍記を読みわれわれが共感するのは、勝者の栄光ではなく、罪なくして配所の月を眺める武将の姿である。

永田さんの出自と闘争歴は、いまここに述べる余裕はないが、一つの挿話だけ紹介しておきたい。大須事件の取調検事であった名古屋地検のK検事が退官後に塚麿呂の筆名で害いた『ドロ検最後の一年』の一節である。

 「〜被告の最終陳述の中で、永田末男君のは、たしかに圧巻であった。この事件で起訴された争乱罪の主魁十人の中で当時日共名古屋市委員長であり、組織の上でも最高責任者であった彼に、ふさわしい意見であった。

 要約すれば、大須事件は、『平和と自由のため、ポツダム宣言と日本国憲法を守るために行なった適法かつ正当な抵抗行動である」から全員無罪であるとしながらも「われわれの抵抗行動は、日共指導部によって些か一面的に誤って“極左冒険主義”という名称で呼ばれはしたが、その責任は彼らが全面的に負うものであることを天下に誓約したところのものである』と断言。現実に行動した被告たちに対する党側の救援措置は甚だ不十分である。

 また、被告たちを非難すべきではなく、指導者の誤りと政治的不明、および特にその無責任さは非難さるべきである、ときめつけ、『党中央のあらゆる指導と指令は下部機関と党員にとって絶対的権威をもっていた』し、『個人生活をも党に従属させ』ることが義務づけられている党員として、他の行動をとることは不可能で、被告たちには期待可能性が存在せず、この点からも無罪であることを強調した上『私自身についていえば、下級機関なりとはいえ、当時の日共の一機関の指導者として…その政治的責任を当然持っている。…われわれを有罪に』されるのなら、私にその全責任を負わせられんことを要請する、というのであった。被告人中唯一人の責任者として、かように刮目すべき陳述をしたのは、この種公安事件では、けだし、稀であろう」

「因縁の大須事件」と題したこの一文は、退官したとはいえ事件に直接関与した検事の作である。永田さんの最終陳述は、党はもちろんマスコミにも無視されたが、敵陣営に属する一検事によってみごとに記録されていたのだ。

 永田さんの誠実無比の弁論は、その敵をも感動させたのである。権力との闘いの過程にあって指導者としての責任を取り続けた永田さんの壮絶な闘いは決して孤独ではなかった。

 永田さんは一九六五年六月八日、日本共産党第四回愛知県委員会総会の決議で反党修正主義者の烙印を押され除名処分を受けた。

 大須事件の責任を一身に負って二年半の実刑を受け、出獄後の住所となった松阪市で曙アカデミーの塾頭として、清廉な生涯を閉じた永田さんは、愛する家族と同志友人に見守られ永遠の旅路に立った。

私は、この痛哭記の筆を欄くに当たり、私たちに友愛と真実の尊さを教えてくれた永田末男さんのモニュメントに、北原白秋の詩の一節を永遠に刻みつけておこう。

真実一路の脈なれど真実鈴ふり思い出す

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